ロシア正教会に関する資料
 
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ロシア正教会に関する資料  


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ロシア正教会が暗闘  ウクライナ奪還へプーチン政権と一体

6月にキリスト教・東方正教会の各国のトップ(総主教)が一堂に会する「全正教会会議」(Holy and Great Synod)が開かれる。50年以上にわたり準備されてきた1200年ぶりともいわれる歴史的な会議を前にロシアが暗闘を繰り広げている。

ロシアの軍事介入に苦しむウクライナのポロシェンコ大統領が3月、トルコを訪問し、同国のエルドアン大統領と会談した。トルコも2015年11月のロシア軍機撃墜事件を機にロシアと対立しており、両首脳は軍事、経済協力を推進することで合意、ロシアをけん制した。

■軍事介入受け離反

ロシアのプーチン政権が神経をとがらせたのは実はもう1つの会談だ。ポロシェンコ大統領は歴史的に東方正教会の中心地であるコンスタンティノープル(現イスタンブール)のバルソロメオス1世総主教とも会談。ウクライナの正教会の統一に向けた支援を求め、総主教も「我々は教会を通じた精神的な絆を感じている」と応えた。

ウクライナの正教会は、キリル総主教をトップとするロシア正教会(モスクワ総主教庁)の管轄下にある教会と、モスクワからの独立を主張するキエフ総主教庁などに分裂している。世界の正教会から承認されていないキエフ総主教庁はコンスタンティノープルに度々使者を送り、承認を働き掛けてきた。トルコとの対立とも相まって、コンスタンティノープルがウクライナ正教会の独立承認に踏み切る事態をロシアは警戒する。

人口800人足らずの村の教会で「占拠」事件が起きた(ウクライナのパシチナ村)
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人口800人足らずの村の教会で「占拠」事件が起きた(ウクライナのパシチナ村)
プーチン政権が14年、ウクライナ領クリミア半島を武力で自国に編入し、東部にも軍事介入したことで、ウクライナではロシア正教会離れが急速に進んでいる。15年の世論調査によると、モスクワ系の教会への支持は20%、一方のキエフ総主教庁の支持は44%に伸びた。14年以降、60~70の小教区がモスクワ総主教庁系からキエフ総主教庁にくら替えしたという。

ウクライナの首都キエフから東へ70キロ離れた人口800人のパシチナ村の教会で14年9月に起きた事件は、ロシア正教会の暗闘ぶりを象徴する。神父が「プーチン大統領が我々を助けに来る」などと説き、ウクライナの国旗を降ろし、東部で戦死したウクライナ兵への祈りを拒否。反発した住民が投票でキエフ総主教庁への移行を大多数で決めると、モスクワ総主教庁系の神父が大勢押しかけて教会を占拠した。「暴力団も乗り込んできて脅された」と住民は証言する。神父は今も居座ったままだ。

■「宗教と核が要」

教会がモスクワ総主教庁系1つしかないウクライナ各地の小さな村ではこんな事件が頻発しているという。キエフのモスクワ系の教会のある神父は「信者の間でキリル総主教のイメージは地に落ちた。我々はもはやモスクワには従っていない」と明かす。「キエフ総主教庁が承認されれば、多くの教会が合流し、ウクライナ正教会は1つになれる」と話す。

これはロシアにとって死活問題だ。モスクワ総主教庁傘下の約3万の小教区のうち3割強はウクライナにある。キエフ総主教庁の独立が承認されれば、ロシアは東方正教会の最大勢力という地位を失いかねない。

ロシアのプーチン大統領(右)と会談するロシア正教会のキリル総主教(2015年7月、モスクワのクレムリン)=ロイター
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ロシアのプーチン大統領(右)と会談するロシア正教会のキリル総主教(2015年7月、モスクワのクレムリン)=ロイター
「伝統的な宗教と核の盾がロシアを強国にし、国内外での安全を保障する要だ」。プーチン大統領はこう語ったことがある。強権支配を固めながら、欧米の価値観の浸透を防ぎ、求心力を維持するための精神的な支柱としてロシア正教を後押ししてきた。ウクライナなど旧ソ連諸国を自国の勢力圏として正当化する時に使う「ロシア世界」という概念も正教文化やロシア語に基づいている。

ロシア正教会は「プーチン政権の一機関」との見方は多い。キリル総主教は11年からクレムリン(ロシア大統領府)に公邸を構え、プーチン大統領の治世を「神による奇跡」と評したことがある。親欧米に転換したウクライナの政権について「邪悪だ」と公言、聖職者に事実上闘争を呼びかけ、プーチン政権と一体となってウクライナ奪還に動いた。

■分裂をちらつかせ圧力

ウクライナとロシアの正教会の起源は988年、東スラブ民族の初の国家としてウクライナの地に成立したキエフ・ルーシ公国のウラジーミル1世がコンスタンティノープルから洗礼を受けて国教とした時に遡る。ロシアは自らをキエフ・ルーシの継承国と主張し、勢力を拡大してきた。スラブ・正教文化の発祥の地であるウクライナの支配はプーチン大統領の「ロシア世界」のまさに根幹となる。

キリル総主教は「全正教会会議」の実現に注力するバルソロメオス1世総主教に対し、「分裂」をちらつかせて圧力を掛けている。1月にジュネーブ郊外で開いた準備会合では、ウクライナで「ギャング」による教会の乗っ取りが起きているなどと指摘し、「コンスタンティノープルにも支持を表明する者がいる」とあからさまに独立承認の動きをけん制した。

ロシアの要求により、当初はコンスタンティノープルだった会議開催地はギリシャのクレタ島に変更になった。トルコとの関係悪化を受け、「安全が保証されない」と主張した。2月にカトリック教会のローマ法王フランシスコとの会談に動いたのも全正教会会議を前に存在感を見せつける狙いがあったと見られている。

コンスタンティノープルとモスクワの勢力争い、エルドアン政権とプーチン政権の確執、そして「ロシア世界」の野望……。神聖であるはずの歴史的な会議の裏では権謀術数が渦巻いている。

(モスクワ=古川英治)

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東京神田のニコライ堂(ロシア神学校)はスパイ養成機関でもあった

東京に縁のある人にはニコライ堂は馴染みの名所のひとつだろう。

<ニコライ-どう ―だう 【―堂】
東京都千代田区神田駿河台にある日本ハリストス正教会復活大聖堂の通称。ニコライが1891年(明治24)に建立。関東大震災で被災したが1929年(昭和4)に再建された。三省堂大辞泉
-もので、ある種の懐かしさを伴うと同時に詩情さえ感じるだろう。

だが、ここのロシア神学校はスパイ養成校でもあった、「神学校に通っていた生徒たちの名前や消息は、今も明らかになっていません。しかし神学校を卒業した少年たちのうち、少なくとも2~3人が、非常によく教育され、目的意識が高く、博識で、流暢な日本語を話すスパイになりました」とロシアの声日本語版が三回にわたって伝えた。
題して-
①日本におけるロシア神学校 - スパイの学校でしたか第1回目 ワシリー・オシェプコフ
②             〃           第2回目  イシドラ・ニズナイコ
③             〃           第3回目 ウラジーミル・プレシャコフ

<彼らはロシアと日本という2つの民族、国家のはざまに生き、その運命は、個人の利害、そして複数の国の特務機関の利害に大きく動かされました。日露戦争、第1次世界大戦、ロシア内戦、鉄道建設の開始・・・

彼らについては多くの謎が残され、多くが悲劇的な最後を遂げたにも拘らず、その名前さえ全貌が掴めていない。
1879年にニコライ大修道院長の尽力によって開校したロシア神学校は、将来のロシア正教の聖職者を育てるために、日本の子供たちに教育を行うというものだったが、1902年8月、ロシア軍からの指令により、ロシア軍のための通訳を養成するために、ハルビンやハバロフスクの少年たちが、神学校に送られるようになった。やがて神学校を卒業した少年たちのうち、少なくとも2~3人が、非常によく教育され、目的意識が高く、博識で、流暢な日本語を話すスパイになった。「生徒たちのカリキュラムには、地理、日本および極東の歴史、文学、文法、読み書き、新聞記事の翻訳、日本語と漢文の書道など、日本の学校で学ぶすべての教科に加え、神学、ロシア語、ロシア文学、世界史が組み込まれて」いた。

日露戦争の敗戦の重要な原因のひとつとして、日本語、中国語、韓国語といった東洋言語の通訳が深刻な不足状態にあったからというものがあって、それを背景にロシア神学校への少年の送り込みが始まったと言う。

各人の詳細は上記サイトに譲るが、略歴を整理してみる。
①ワシリー・オシェプコフ

1913年 神学校卒業。ハルビンにある外アムール軍管区の諜報機関で、通訳として働く。
1914年 ウラジオストックで学生時代に鍛えた柔道の道場を開く。
1923年 コードネーム「DD」でソ連軍に協力。サハリンで日本の兵士向けの映画を上映しながら、日本      軍の配置に関する貴重なデータなどを収集し、報告した。
1925年 再来日し不法滞在する。労働者農民赤軍の第4司令部に所属。
1926年 帰国命令。裏切り嫌疑で数年間シベリア送りに。
1937年 日本のスパイ容疑で逮捕。同月収監されたブトゥイルスカヤ刑務所で狭心症の発作のため死亡。

②イシドラ・ニズナイコ

1906年 外アムール国境警備局からの奨学生という形で神学校に入学。
1912年 優秀な成績で神学校を卒業したニズナイコはハルビンに戻り、国境警備局の通訳として長年勤務      した。
1918年 東清鉄道国境警備隊の主席通訳に任命された。日本人について、またシベリアにおける日本人の      動向についての極秘情報を収集した。活動はかなり危険なもので、必要な情報はマッチ箱に暗号で      書きしるし、家に帰ってそれを解読し、報告レポートを作成した。
1941年 拠点を上海に移す。日本語の教科書を出版する。
1945年 満州赤軍に入隊、ウォトカおよびワイン生産連合書記になる。一時、あらぬ嫌疑を受けてハルビ      ンの軍事諜報機関に逮捕されたが、直ぐに釈放された。

③ウラジーミル・プレシャコフ

1906年 ロシア神学校へ送られる。
1912年 優秀な成績で神学校を卒業し、その後2年間にわたって外アムール軍管区本部の通訳として勤務      した。
1914年 第一次世界大戦勃発とともに中尉として前線に。
1917年 ロシア・ボルシェビキ革命 露帝国崩壊。
1918年 故郷ハルビンに向け送還されたが、途中のオムスクにしか達しなかった。コルチャーク大将が打      ち立てた反ボリシェヴィキ政府(白軍)の諜報将校となり、対日諜報活動を行った。日本軍のシベ      リア出兵の年だ。
1920年 コルチャーク敗北(1919年)の後、経緯は不明だが、日本軍歩兵第11連隊の本庄繁隊長の      通訳となった。日本軍撤退の後、ハルビンを経由してウラジオストクに移動したが、そこでソ連政      権の誕生を迎えた。
1923年 ソ連消費者協会の通訳として函館に赴任。
1928年 ふたたびハルビンに戻り、1935年(日本への鉄道譲渡)まで東清鉄道で働いた。
<神学校の最初の卒業生だったウラジーミル・プレシャコフとオシェプコフは非常に近しい親友のような関係だった。1923年5月以降、プレシャコフは諜報活動に協力するようになり、オシェプコフから教えてもらった函館の消費者協会で働くようになった。つまりプレシャコフを消費者協会につないだのはオシェプコフだったのだ
ーと言う。

***
スパイ活動は公式には存在しないことになっているが、実際がそうでないのは周知の通りだ。スパイ活動のカモフラージュに使われる身分は、学者、評論家、ジャーナリスト、語学学校教師、通商団体、NGO、大使/公使館職員、留学生、…と数多い。駐在大使館が司令塔になる場合がある。要職にある人は心得ておきたい。

勿論、日本も諜報活動もどきをやっている。

http://literaselect.seesaa.net/article/297813389.html

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日本におけるロシア神学校 - スパイの学校でしたか

日本におけるロシア神学校 - スパイの学校でしたか

    日本で開校されたロシアの神学校で学んだ生徒たちの運命について、第1回目の今日は、ワシリー・オシェプコフをご紹介します。

   最近、ロシア正教会の最高指導者である総主教キリル1世が日本を訪問しましたが、これを機に、日本のロシア正教会にまつわる歴史にふたたび注目が集まっています。そしてロシア正教を日本に広めるために日本に滞在した神父ニコライを始めとしたロシア正教の宣教師たちの人生にもふたたび目が向けられています。

   宣教師ニコライが開いたロシア神学校で学んだ彼らは、ロシアと日本という2つの民族、国家のはざまに生き、その運命は、個人の利害、そして複数の国の特務機関の利害に大きく動かされました。日露戦争、第1次世界大戦、ロシア内戦、鉄道建設の開始・・・、しかし、その神学校の生徒たちの人間性は、初めて日本で活動を行ったニコライ・イポンスキー大主教という素晴らしい人物の基で形成されていたのです。彼らは20世紀初頭の極東の歴史の生き証人となっただけでなく、重要な歴史的出来事にかかわりを持つことになりました。

   ロシア正教の神学校の最初の生徒たちについてはまだ多くの謎が残されています。政治イメージ学およびクロスカルチャーコミュニケーションの専門家で、ロシア日本研究者協会の役員でもあるアレクサンドル・クラノフさんは、その生徒たちの多くが、なぜ悲劇的な最期を迎えたのかなど、多くの謎を解き明かそうとしています。

   神学校に通っていた生徒たちの名前や消息は、今も明らかになっていません。しかし神学校を卒業した少年たちのうち、少なくとも2~3人が、非常によく教育され、目的意識が高く、博識で、流暢な日本語を話すスパイになりました。この神学校にまつわるお話、3回シリーズでお届けする予定ですが、第1回目の今日は、元神学校の生徒の中で、おそらくもっともカリスマ性があり、もっとも才能があったと思われるワシリー・オシェプコフをご紹介したいと思います。ワシリー・オシェプコフは、ロシアで柔道の普及活動を行い、ロシアの格闘技「サンボ」の創始者としても知られています。オシェプコフについて、アレクサンドル・クラノフさんにお話を伺いました。

   これは、日露戦争より前にすでに始まっていたことですが、それが大きな展開を見せたのは日露戦争が終結した後です。生徒たちは1902年から1917年にかけて、日本の神学校で学んでいました。神学校は1879年に、後に大主教となるニコライ大修道院長の尽力によって開校しました。当初の学校の目的は、将来のロシア正教の聖職者を育てるために、日本の子供たちに教育を行うというものでした。しかし1902年8月、ロシア軍からの指令により、ロシア軍のための通訳を養成するために、ハルビンやハバロフスクの少年たちが、神学校に送られるようになりました。ワシリー・オシェプコフはサハリンから、自発的にこの神学校に向かったのです。当時、彼はすでに孤児でしたが、その真面目さと熱意には、誰もがすぐに注目しました。

   アレクサンドル・クラノフさんの声でした。ワシリー・オシェプコフは1892年12月25日(旧暦の1893年1月7日)に、サハリンの徒刑囚、マリヤ・オシェプコワと流刑者セルゲイ・プリサクの間に生まれました。11歳で孤児となり、1907年の9月、14歳のときに、東京の神学校に入ることとなりました。当時の神学校では、12歳から60歳までのロシア人と日本人が学んでおり、一般的な教育機関とは少し異なるものでした。生徒たちのカリキュラムには、地理、日本および極東の歴史、文学、文法、読み書き、新聞記事の翻訳、日本語と漢文の書道など、日本の学校で学ぶすべての教科に加え、神学、ロシア語、ロシア文学、世界史が組み込まれていました。また神学校内では、ロシア語での会話は禁じられていました。

   さらに学校では、嘉納・治五郎によって作られた柔道の基礎が指導されていました。頭がよく、すばしこかったワシリー・オシェプコフは柔道の技を次々と習得し、柔道の総本山、講道館で修行できることになりました。運命の女神が彼に味方をしたのです。講道館の資料には、オシェプコフは1911年10月29日に入学したという記載が残されています。オシェプコフはそこでもめきめきと実力を伸ばし、1913年6月15日、ロシア人として初めて初段を取得しました。同じ年、オシェプコフは神学校を卒業します。祖国に戻ったオシェプコフは、ハルビンにある外アムール軍管区の諜報機関で、通訳として働くようになりました。その後、沿アムール軍管区の諜報機関に入ってからは、任務を遂行するため、日本を訪れることもありました。

   1914年、オシェプコフは、ウラジオストクで初めての柔道学校を開校しました。学生を中心に、50人ほどが通う学校でした。そしてウラジオストクに住む日本人もトレーニングに訪れていました。1915年には、第一回露日国際柔道大会が開かれ、1917年に開かれた第2回大会で、オシェプコフは2段を取得しました。そして、このことが後にオシェプコフの運命を決定づけていくことになりました。

   1923年9月、オシェプコフはついに「DD」というコードネームで、ソ連軍に協力するまでになりました。サハリンで、日本の兵士向けの映画を上映しながら、オシェプコフはサハリンにおける日本軍の配置に関する貴重なデータなどを収集し、報告していたのです。そして1925年、オシェプコフはふたたび日本を訪れることになります。労働者農民赤軍の第4司令部に所属する、最初の日本不法滞在者のひとりとなったのです。最初は神戸、そしてそのあとは東京に滞在しました。東京では、麻布3連隊の分宿に住み、隊員たちが通っていた写真館の主人と親しくなりました。柔道クラブにも顔を出し、麻布3連隊の兵士たちと直接、話すようになりました。兵士たちはオシェプコフの柔道の技術と、人柄、そして素晴らしい日本語に深い印象を受けました。彼がどのようにして日本語を習得したのかについて、アレクサンドル・クラノフさんは次のように語っています。

   オシェプコフは日本で、「弁士」の元で勉強していたのです。この職業は非常に日本的なものです。日本で映画が上映されるとき、オシェプコフは自分でフィルムを買い、レパートリーを組んでいたのですが、その映画の解説をする話し手が必要だったわけです。日本の伝統です。しかも映画の説明をするには、スクリーンに映し出されているすべてのことを、詳細に伝えなければなりません。アメリカの戦争映画、フランスの恋愛ドラマ、日本のサムライのお話・・・こうしたさまざまな映画の解説をしているうちに、彼の日本語能力はきわめて高いものになっていったのです。

   長方活動という仕事は複雑で、危険なものです。しかも日本で諜報活動をするというのはとりわけ難しいことでした。しかし日本の事情に精通していたオシェプコフはここで防諜のためのネットワークを構築しようと努力しました。彼には神学校時代からの知り合いもたくさんいました。しかし、モスクワの本部はすぐに成果を出すよう、オシェプコフに要求しました。そして1926年、帰国命令が下ります。これを機にオシェプコフの諜報活動は終止符を打つことになりました。6年もの間、常に日本側からの粛清の脅威におびやかされていた彼は、今度はソ連側からの粛清の対象となったのです。心底、屈辱を感じたオシェプコフはいかに自分が誠実に働いていたかを証明しようとします。オシェプコフの手記には次のような文章が残っています。「わたしは真のロシア愛国者です。日本の学校に通っていましたが、そこでは自国民、そしてロシアを愛するということを第一に学びました。わたしはロシア軍の人員として教育を受け、1914年以降、祖国に永遠に命をささげてきました。

   完璧な日本語を話し、人間的な魅力と知性を兼ね備えていたプロのスパイ、ワシリー・オシェプコフは数年にわたってシベリアに送られ、そこで柔道の指導を行い、その後、モスクワに戻ってからも、柔道の普及活動に尽力しました。そして、ソ連のフリースタイル格闘技「サンボ」の創始者となりました。

   1937年10月2日の深夜、オシェプコフは、ソ連の数十人の日本専門家たちとともに、日本のスパイの容疑で逮捕されました。逮捕されたオシェプコフの尋問記録2641番には、「1921年から1931年にかけて、正式には日本語の通訳として働き、また不法に地下活動を行った」と記されています。これは終盤の尋問の記録で、その他の記録や資料は一切残っていません。1937年10月10日、オシェプコフはブトゥイルスカヤ刑務所で、狭心症の発作のため亡くなりました。

   1956年になって、オシェプコフはようやく名誉回復。2012年9月にはウラジオストクに、オシェプコフの胸像が建てられました。ロシアで柔道を広め、サンボを確立し、そしてゾルゲの先駆者ともいえる人物だったのです。というわけで、今日は日本で開かれたロシアの神学校で学んだワシリー・オシェプコフの人生をご紹介しました。来週の「文化の世界」では、オシェプコフ以外の神学校の生徒の物語をお伝えします。

http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2012_10_03/90048089/

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日本におけるロシア神学校 - スパイの学校でしたか 第2回目

日本におけるロシア神学校 - スパイの学校でしたか 第2回目

   先週もお伝えしました日本にあったロシア正教の神学校で学んだ生徒たちの運命についてお話する第二弾です。すでにお話しましたように、ロシアと日本の関係、政治的な争い、諜報活動というものと密接につながっている元生徒たちの人生は極秘の資料として、これからも公開されることはないと思われますが、それでもそのうちの何人かについては少しずつ秘密が解き明かされています。クロスコミュニケーション分野の専門家で、日本研究者協会の役員でもあるアレクサンドル・クラノフさんは、もうひとりの生徒、イシドラ・ニズナイコの人生について知る貴重な資料を手に入れました。資料を提供したのはニズナイコさんのお孫さんです。彼はこの資料を、祖父の思い出にと長年、保管してきました。アレクサンドル・クラノフさんにお話を伺いました。

   イシドラ・ニズナイコ、彼もまた驚くべき人物のひとりです。彼については、1年半ほど前に、資料を探しているときに出会った、彼の孫のおかげで非常に多くのことを知ることができました。その孫ももうかなりの年齢ですが、彼は祖父であるイシドラ・ニズナイコに関する資料が入った皮のスーツケースを大切に保管してきました。いつか誰かが必要とする日がくるだろうと信じていたのです。彼は、祖父がともに活動をした人々の過去を明らかにするために多くのことを成し遂げました。そして最近、ロシア移民に関する問題を扱うハバロフスクの事務局から資料を受け取りました。東清鉄道にかかわるロシアの移民を管理するために日本が1934年に作った組織にあった資料は、1945年にソ連に移され、現在はロシアの管轄のものとなったということでした。そこには満州に暮らしていたロシア人の何万件もの案件が記録されています。しかし、資料に添えられた手紙には、国家の安全を守るため、彼の祖父についても記録の10%も明らかにされていないと記されていました。

イシドラ・ニズナイコ

写真の提供者:アレクサンドル・クラノフ

   アレクサンドル・クラノフさんの声でした。その資料によれば、イシドル・ニズナイコは1893年5月27日、クバン生まれ。3歳のときに、クバンコサック隊のメンバーだった父親が、東清鉄道の警護のためハルビンに出張しました。そして以来、ニズナイコは死ぬまで、この東清鉄道とかかわっていくことになったのです。1906年、東清鉄道の管理も行っていた外アムール国境警備局は、教育のため、東京のロシア神学校に8人の少年グループを派遣しました。そのひとりが当時13歳のニズナイコでした。実は1959年に、ニズナイコさんが子供や孫に宛てて、自分の人生について声のメッセージを残しています。その一部をお聞きいただきましょう。

   1906年から1912年まで日本にあった神学校で学んだ。外アムール国境警備局からの奨学生という形だった。故郷や両親から引き離されたような気がして、とてもつらかった。しかしわたしは強くなり、あらゆる困難を乗り越えた。

   イシドラ・ニズナイコさんの肉声のメッセージを一部、おききいただきました。イシドル・ニズナイコはもっとも優秀な生徒のひとりとされていました。そしてチェーホフやプーシキンの作品を翻訳していた神学校の学長夫人で、瀬沼夏葉(かよう)の名で知られるエレーナ瀬沼さんを助けていたと言われています。優秀な成績で神学校を卒業したニズナイコはハルビンに戻り、国境警備局の通訳として長年勤務しました。

   スパイを養成するために、なぜ軍は若者を神学校に派遣すると決めたのでしょうか。実は1899年以降、ウラジオストクの極東大学が軍や艦隊のために同様の教育を行っていたのですが、ここで高いレベルの日本語を勉強した生徒たちはすでに大人になり、家族を養い、自分なりの考えや主張を持って、学術の世界での成功を望む人が多かったのです。そこで東京の神学校には、もっと若い人材を送りこむことで、日本語を話し、日本風の服装をし、日本の同級生たちと時間をすごし、日本に溶け込ませようとしたのです。

   ニズナイコは道路管理局に勤めているうち、白軍、赤軍両方の、通訳として、そして同時に諜報員としてかけがえのない人物となりました。ニズナイコの手記にはこんな文章が残っています。

   1918年、東清鉄道国境警備隊の主席通訳に任命された。日本人について、またシベリアにおける日本人の動向についての極秘情報を収集した。活動はかなり危険なもので、必要な情報はマッチ箱に暗号で書きしるし、家に帰ってそれを解読し、報告レポートを作成した。

   それからずいぶん後の、ソ連国家安全局の書類には、ニズナイコは自らの活動の一部を恣意的に隠していた可能性があると記載されています。実際、オシェプコフ、ユルケヴィッチ、プレシャコフといった神学校時代の仲間たちは同じ罪で命を落としました。しかしニズナイコは自伝の中で、自分が国に対して忠誠を尽くしたことを強調していました。たとえば次のような記述が残っています。

   1919年、駅で、荷物を積んだ2つの車両の職員を拘束した。車両には、白軍のセメノフがチタで積んだロシアの金と、日本人が灰に見せかけて運んだ日本の軍人が乗せられていた。武器もなく、われわれは抵抗するすべもなく、ただ撃たれただけだった。結果、ロシアの金を載せた車両はわれわれの眼の前で、猛スピードで長春へと向かっていった。おそらく日本の車両に積み替えるためだろう。われわれは報告書を作ること以外、何も手を打つことができなかった。

   1935年に鉄道が日本側に譲渡された後、ニズナイコはしばらく職を失い、重い病気にかかります。しかしそのときには彼はすでに東清鉄道でも有名な人物となっていたため、まもなく市当局の日本語通訳として働くようになりました。そしてそこに1941年の3月まで留まりました。これについてアレクサンドル・クラノフさんは次のように話しています。

   移民のための新聞の一部が当時の雰囲気を今に伝えています。「イシドル・ニズナイコの日本語は、美しい菊の花と優雅な芸者たちのアーモンドのような瞳を思い起こさせる。日本人でも彼と知り合って話をすると、最後に必ず、帽子をとらせて、彼の髪の色を確認しようとするのである」

   そしてもうひとつ、ニズナイコの回想に次のような文章があります。「日本人と働くのはもちろん容易ではなかった。我慢をすることが求められ、あらゆる手段で、ロシア人とロシアの問題を守らねばならなかった。わたしが日本人からあまり好かれていないことは最初から明らかだったし、出世することもなかった。わたし自身もそれを期待してはいなかった。

   1941年3月、日本人の配置換えが行われるのを避けて、ニズナイコはふたりの息子を留学させた上海へと拠点を移しました。上海では大きな手術を受け、日本語の教科書を出版しました。1942年に上海で出版された教科書というのは、年代としても、出版された場所としても、かなり珍しいもののひとつでしょう。編者からの序文には、東京の神学校卒業30年を記念したものだと書かれています。残念ながら、この教科書が何部、出版されたのかははっきりしていません。

イシドラ・ニズナイコの日本語の教科書

写真の提供者:アレクサンドル・クラノフ

   1945年に満州赤軍に入ったニズナイコは、ウォトカおよびワイン生産連合書記」という役職を与えられます。その後、彼はハルビンでの軍事諜報活動機関によって逮捕。尋問を受けたものの、審理もなく、釈放されます。神学校の他の生徒たち、また東清鉄道の多くの職員とは違い、ニズナイコは粛清の対象にならなかったのです。なぜ彼は命を落とさずに済んだのでしょうか。その謎は、明らかになっていない90%の資料に隠されているのかもしれません。

   ニズナイコの息子、ヴィクトルは1949年、上海からソ連へとうまく帰国しました。一方、イシドル・ニズナイコ自身は1954年まで満州で生活し、この間、ずっと中国の長春鉄道の主任通訳をし、スターリンの死後ようやくソ連に帰国しました。イシドル・ニズナイコは1968年にこの世を去りました。子孫によれば、死ぬ前に祖国に戻れたことをとても喜んでいたといいます。そして子供たち、孫たちに、自分と同じように祖国を愛せよと教えていたそうです。

   というわけで、東京にあったロシア正教の神学校で学んだ生徒たちの運命についてお伝えするシリーズ、今日は2回目をお届けしましたが、来週は、ニコライ神父が、学校の中で未来のスパイが養成されていたことを知っていたのかどうかという疑問に迫りたいと思います。
続きを読む: http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2012_10_10/90776315/

http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2012_10_10/90776315/

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日本におけるロシア神学校 - スパイの学校でしたか 第3回目

日本におけるロシア神学校 - スパイの学校でしたか 第3回目

   先々週から、かつて日本にあった神学校で学んだ生徒たちの運命についてお話してきましたが、今日はその最終回。ウラジーミル・プレシャコフを取り上げます。

  東京の神学校で学んでいた生徒の中で、その後の人生について比較的明らかになっている人物は多くはありません。そのうちの二人、ワシリー・尾シェプコフとイシドル・ニズナイコについては、これまでの番組でお話しました。彼らとともに学んだウラジーミル・プレシャコフもまた、彼らと同じように諜報活動を行っていました。ロシア帝国、白衛軍、そしてソ連のスパイとして生きたのです。しかし分かっていることはそうたくさんはありません。

   ウラジーミル・プレシャコフは1937年9月にソ連の内務人民委員部により反革命諜報テログループに属していた疑いで逮捕されました。モスクワのブトゥイルスカヤ刑務所で行われた尋問の記録によれば、プレシャコフは1892年、バクー市のコサックの家に生まれました。19世紀末といえば、コサックたちが、石油の産地や外カフカス地域のロシア人地区の警備の仕事を与えられるようになった時期でした。1900年、プレシャコフの父親は東清鉄道の建設と警備のため、ハルビンへと向かいました。日露戦争の終結後まもなく、外アムール軍管区の指令により、いくつかの児童のグループが日本へと派遣されました。こうした動きにはどのような理由があったのでしょうか。この問題について研究を行っているアレクサンドル・クラノフさんにお話を伺いました。

   日露戦争の敗戦の重要な原因のひとつとして、日本語、中国語、韓国語といった東洋言語の通訳が深刻な不足状態にあるというものが挙げられていました。この不足を解消するために、さまざまなプロジェクトがまとめられました。中でもエキセントリックだったのが、ソウル、ペキン、東京の在外公館の中に、幼稚園と、プロのスパイを養成するための学校を創設するというもので、幼稚園や学校にはブリヤートやモンゴルといったアジア系の外見を持つ孤児を送ることが検討されていました。しかしこのプロジェクトは実現しませんでした。それよりも東京にある神学校に子供たちを送り込んだほうがいいという考えに至ったのです。

   アレクサンドル・クラノフさんの声でした。1906年、高い能力を持つウラジーミル・プレシャコフがグループのひとりに選ばれ、日本での研修に送られました。ウラジーミル・プレシャコフについて、ニコライ神父の日記にはこう記されています。「神学校の年少クラスで旧約聖書の歴史に関する試験を行った。クラスでは24人が学んでいたが、そのうち5人がロシア人だった。年少のプレシャコフ以外の生徒たちはうまく答えることができなかった」1912年、ウラジーミル・プレシャコフは優秀な成績で神学校を卒業し、その後2年間にわたって外アムール軍管区本部の通訳として勤務しました。

   第1次世界大戦の勃発とともに、若き通訳のプレシャコフは前線に送られ、中尉の称号を与えられます。そして1918年にはハルビンの故郷に送られましたが、オムスクまでしか辿りつけませんでした。オムスクではコルチャーク大将が反ボリシェヴィキ政府を打ち立てていました。プレシャコフはここで諜報機関の将校となりました。なすべき仕事はたくさんありましたが、白軍の重要な諜報活動のひとつが日本に関するものだったのです。

   よく知られていますように、コルチャークは日本人を信用していませんでした。日本人もまた彼を信用していませんでした。この不信感がもたらされたきっかけとなったのが、諜報機関の次のような報告書でした。

   産業のための資源が不足し、他の市場を取り込もうとする日本は、資源が豊富で産業があまり発展していない中国、ロシア極東といった地域の領土を占領するという外交政策をとっている。ボリシェビキ(赤軍)との戦いを名目に日本は軍を出動させ、シベリア占領を狙い、広大な土地や建物、壕、産業施設などを購入、日本企業への融資のための銀行支店を開設している。

   極東におけるこうした状況を知り、日本の利益とロシアの利益が一致していないことを理解したコルチャークでしたが、武力を用いることを決心できず、その結果、自らの滅亡を招くことになりました。

   プレシャコフが機密情報を直接、入手することができたのかどうかについて、はっきりとした記録はありません。ただ1919年にコルチャークが逮捕された後、プレシャコフが日本の諜報機関側についたという証言をしたという謎の事件があります。しかしコルチャークの逮捕は実際には1920年の1月末で、コルチャークの下で勤務する少佐がいかにして日本側につくことができたのかは分かりません。しかし、プレシャコフは日本軍歩兵第11連隊の本庄繁隊長の通訳となりました。本庄繁連隊長は後に大将となり、男爵をとなり、華族に列せられ、枢密顧問官になった人物です。1920年の春に日本軍がザバイカリエ(外バイカル)から撤退したあと、プレシャコフはハルビンを経由して、ウラジオストクに移動しますが、そこでソ連政権の誕生を迎えます。

 1923年5月、プレシャコフはソ連消費者協会の通訳として函館に到着します。この消費者協会は、日本でソ連と日本の漁業関係者の参加による海産物加工の問題を取り扱っていました。この消費者協会というのがプレシャコフにとって、都合のよい隠れ蓑になっていたと思われます。軍事諜報の歴史に詳しいミハイル・アレクセーエフさんは次のように書いています。

 「神学校の最初の卒業生だったウラジーミル・プレシャコフとオシェプコフは非常に近しい親友のような関係だった。1923年5月以降、プレシャコフは諜報活動に協力するようになり、オシェプコフから教えてもらった函館の消費者協会で働くようになった。つまりプレシャコフを消費者協会につないだのはオシェプコフだったのだ」

  プレシャコフは1928年まで函館にいましたが、その後、ふたたびハルビンに戻り、1935年まで東清鉄道で働いていました。鉄道が日本に譲渡されるまでということになります。そしてその後はモスクワに移りました。尋問でプレシャコフは日本の諜報機関に雇われ、ソ連軍との戦闘に参加したと自白しています。当時、このような自白をさせるのは難しいことではなく、誰も彼の諜報活動がどのようなものであったのかということには関心を示しませんでした。しかしプレシャコフはなぜソ連軍の諜報活動を行っていたことを言わなかったのでしょうか。この問いにはまだ答えは出ていません。

  もしかするとそのことを口にしたものの、警察が信用しなかったのかもしれません。彼らは少しでも早く、日本の諜報機関に協力していたと報告したかったのです。日本に対する敵対心がとくに高まったのは1937年夏のことです。日本研究者だけでなく、日本となんらかの関係がある者はすべて日本に対するスパイ行為を行っていたと非難されました。そして判決はすぐに下されました。1937年プレシャコフはモスクワ郊外のブートヴォ射撃場で銃殺されました。家族についての記録は何も残っていません。

  ここでもうひとつ疑問が沸き起こってきます。それは東京の神学校は本当にスパイの学校だったのかということ、そしてニコライ神父はそのことを知っていたのかということです。研究者のアレクサンドル・クラノフさんにふたたびお話を伺いました。

  「私が集めた資料や記録を読んでいて思うのは、ニコライ神父がもし生徒たちの将来について何か疑問を持っていたとしたら、スパイ養成の意味はなかったのではないかということです。それを証明するようなエピソードがあります。軍の司令部は何度も繰り返し、生徒の数を増やすよう要請していました。しかし神父は、学校はたくさんの児童を受け入れることができないとして、それを毎回断っていました。そして「学校は日本の聖職者とロシアの通訳を育てることを目的としている」と書いているのです。

  日本の神学校を卒業した若者すべてがスパイになったわけではないでしょう。スパイになるような能力のない者もいたでしょうし、研究や教育、あるいはロシア正教の活動に進んだ者もいたでしょう。そして戦争や革命で命を落とした者もいたでしょう。日本側についた者もいたはずです。日本もロシア帝国、そしてソ連の動きについて、積極的に諜報活動を行っていたのですから。

  というわけで、先々週から3回連続で、研究者アレクサンドル・クラノフさんのお話を交えながら、日本にあった神学校で学んだ生徒たちの運命についてお伝えしてまいりましたが、今日でそのシリーズはおしまいです。しかし、当時の日本とロシアの関係については多くの興味深い資料が残されています。またいつか機会があれば、番組でお話したいと思います。
続きを読む: http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2012_10_16/91403452/

http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2012_10_16/91403452/

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参加: 3年 前

「六本木の赤ひげ」アクショーノフ医師死去、9日に告別式!

東京・六本木で半世紀以上にわたって外国人向けに診察を続け、「六本木の赤ひげ」と親しまれてきた白系ロシア人医師、エフゲーニー・アクショーノフさんが5日夜、亡くなった。90歳だった。

第二次世界大戦中の1943年、留学のため旧満州のハルビンから単身来日し、東京慈恵医科大に入学。苦学して医師国家試験に合格し、米陸軍病院などで経験を積み1953年、六本木で開業した。日本語、英語、ロシア語はもちろん、ギリシャ語、中国語なども出来る医師として来日する外国人の間で重宝がられた。とくにシラク元仏大統領、歌手のマイケル・ジャクソンら世界的有名人を多数診察したことで知られている。

アクショーノフ医師はどんな患者も区別せずに診察し、東南アジアなどから来た貧しい若者には無料で、お金持ちからはがっぽり頂いたという。医師として優秀なだけでなく、持ち前の明るい性格からファンが多く、飯倉片町交差点にある「インターナショナル・クリニック」は外国人の社交場にもなっていた。

その一方、冷戦時代を反映して一時、当局から「ソ連のスパイ」あるいは「米国とソ連の二重スパイ」などと疑われ、日本の警察だけでなく、ソ連官憲に逮捕されたこともある。いずれも容疑が晴れたが、本人はソ連を嫌って帰国せず、生涯、無国籍で通した。

アクショーノフ医師はロシアのプーチン大統領とも親しく、何度かクレムリンに招かれて食事を一緒にした。大統領から、ロシアに帰国して祖国のために働いて欲しいと依頼されたが、「日本が好きだから」と断ったと言う。日露友好のために貢献したいという思いが強く、大統領に北方領土問題について持論を語ったと生前、話していた。

筆者は毎日新聞のモスクワ特派員を終えて帰国した1997年、初めてお目にかかり、話を聞いているうちに波乱万丈の半生に打ちのめされた。それから約1年半、クリニックに通い詰め、話を聞いて単行本にまとめ2003年、集英社から『六本木の赤ひげ』というタイトルで出版した。その後も折に触れてクリニックに通っていた。

アクショーノフ医師の通夜は8日午後6時から東京・神田駿河台のニコライ堂で、告別式は9日午前11時から同じくニコライ堂で営まれる。日本を愛し、日本人をよく理解していた白系ロシア人の重鎮だった氏に心から感謝しつつ、ご冥福をお祈りしたい。(この項終わり)

 

http://blog.goo.ne.jp/eurasia-candy/e/8a89815f7c79d028964b88095a666e3c

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