社会問題

橋本発言もう一つの視点 緊急特別寄稿

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 たびたび進渉的文化人と称する人々の中から「右にいれば真ん中も左に見えるJ と揶揄する声が出る。彼らに言わせれば、自分たちは政治的に中立であるが、平和を望むこと、そして正義の声を発すれば「左」というレyテルを貼られ、冷視の対象となり、戦中であれば非国民扱いされるという論調だ。
同じように「左にいれば真ん中も右に見える」という政治的スタンスも指摘できる。
政治は国家を動かし、それは国民の一人ー人に負担がかかってくるだけに、起る事象はすべて重要なプロパガンダとなり得る。

先頃、国会議員の靖国神社参拝や先の戦争の解釈をめぐって、中国・韓国が日本を「右傾化」「軍国主義の復活」と位置づけたが、日本国内においては、本気でそう捉える国民はまずいないだろう。
日本の社会を見れば平和の雰囲気が漂い、彼らがほのめかす”軍靴の響き”はどこにも聞こえない。逆に日本以上の軍事大国となっている両国がそのような主強をしていることは「真ん中も右に見える」というロジックと、それに基づく自国を優位に導こうというプロパガンダに他ならない。
どこの国にもそうした兆候があるにせよ、この両国は特に顕著である。安倍政権誕生後、中国や韓国は日本の動向、特に歴史認識についての見解に変化が起きることを注視していた。
戦後七十年が経過しようとしている現在、戦争の体験者が少なくなり、戦争の知識が国民の中で希薄化するのは当然のことで、特に日本の若者が保守化してきていると見る中国韓国が宣伝戦に遅れをとることを食い止めるには、機会あるごとに日本の「野蛮性」を誇張しなければならない。
それは確実性がなければないほど、自国に後ろめたいことがあればあるほど焦りとなって表出する。一例をあげれば、韓国にとっての「従軍慰安婦」は強制連行や国家(日本)の関与の証拠が出ていない、中国にとっての尖問問題ばそれ以前にフィリピンとの南沙諸島問題がある。

近隣諸闘が自国(中国)の領土を慢そうとしているという意識を第三国に与え、自己の正当性を訴える。日本は我が魚釣島(尖悶)を狙っているーーその正当性を主摂するには段階的な切り崩しが必鹿となるoおそら〈中国は沖縄も日本の領土ではなし、(我が圏の領土である)と言ってくるだろうと思っていた矢先、予想どおり彼らはそれを主張してきたのさらにそれを強固なものとするために持ち出しているのが歴史問題(日本軍による侵略)なのである。韓国も同様、「植民地支配」と「従軍慰安婦」は日本に対するイエシアティブを握るための“必需品”なのである。被らは一応「友好」を叫ぶ。しかし彼らにとっての友好とは一歩優位に立った立場での友好なのである。

国内における政争も同様、民主党政権時の野党自民党が政権奪取のために執拗なあら探しをした醜い姿 - 民主党に日本の舵取りは任せられないと訴えた自民党であるが、いざ政構を掌握するとさほど大差がないことに気づく。
特に歴史観については、村山政権時の歴史観を必ずしも踏襲するものではないと言っていた安倍首相も、今では政権を再奪取されないためにポリシーを捨て、かの大戦について村山談話や河野見解を踏襲する(侵略および強制連行があった)という主旨の発現をするようになった。
皮肉った言い方をすれば、どんなに戚勢のいいことを言っても、やはりあなたもそうでしたか、思い通りにはいかないでしょう安倍さん、といったところだ。
そんな最中に大阪市の橋下市長が「従軍慰安婦は当時必要であった」と発言をして問題になった。テレビ新聞を見る限り、橋下氏の発言に費同する声は国の内外、政治家、マスヨミ、評論家いずれからも聞かれなかった。唯一同じ政党の代表である石原慎太郎氏のみが彼を擁護したが、発言の要点に対する具体的弁護はない。

政治というのは国民によりよい生活をもたらす手段である。為政者というのは政治のためではなく、国家のため国民のためというのが目的なのだから、本来的には為国者と呼ぶべきものである。そのための手段として政治を行なうのだが、「為政者」の目がどこを向いているのかといえば、少なくとも戦後体制は自己以外に焦点はない。
戦前戦中、あるいはもっと遡って議会制度が確立した明治期は、国策の是非はともかくとして、少なくとも現在よりは国家国民の方に目が注がれていた。
明治維新の功労者であった大久保利通は暗殺される前、側近にいる者からその危険性を指摘されながら政治に命をかけ、結果災難に巻き込まれたし、死後には、政治のために多額の借金を抱えていたことが明るみに出たことで、その不惜身命の精神が評価されている。
ところが現代は、生命をかけるどころか、個人的には財産を抱えるなど私腹を肥やし、政治的には保身のため国家を売ることもー切厭わない「為己者」 ばかりになってしまった。

僕は今回の発言、橋下発言を支持しない者が、割合からいって伝えられるほど多いとは思わない。彼が言うごとく、発言の主旨がうまく伝わっていないこともあろうが、それは国民の読解力のなさと、ある強大な影響力を持つ媒体の操作によるものであることは明白である。

感情的で判断力の乏しい国民の無知加減を問題にしても仕様がないのでここでは論じないが、一方の媒体操作については国家を誤まった方向に導きかねないだけに見過ごすことはできない。
“第四の権力”といわれながら、しかしその力は何よりも強いテレビ・新聞等マスコミ、マスメディアがこれまで犯してきた悪行は枚挙に暇がない。
彼らが築いたものは、反対勢力になりえない軟弱野党に任すことはできないとのスタンスから、媒体を通じて直披プロパガンダしようという政治手法である。
それは重要な用件 -危機感といってもいい― があるときこそ特に突出する。

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たとえば六十年安保(日米安保条約批准)がそうであったし、ベトナム戦争、がそうであった。
そして今般、彼らがもっとも危機感を飽いているのが憲法改正である。一頃、憲法改正を主張することは軍国主義的だとの観点から、それを表立って主張する政治家はほとんど存在しなかった。
問題提起すること自体白眼視される政治的状況が長く続いたが、近年はタブーではなくなり、特に昨年末の自民圧勝によりそれが現実味を帯びるようになった。
そこで戦後終始一貫憲法改正に反対の立場をとってきたマスコミは、野党のだらしなさに危機感を持ち、歯がゆい想いを募らせてきた。
今回の橋下発言に対するマスコミ、およびメディアに登場する左翼言論人の糾弾キャンペーンは、まさにそうした危機感とリンクしている。マスコミは公正中立でなければならないのか、あるいはある程度の主義主張は認められて然るべきなのか、それはさかんに議論されてきたことであるが、言論および活字というものは、場合によっては強力な武器となり得るだけに、慎重さが必要であることは、いたるところで主張されてきたことである。
“ベンの暴力”というものは剣の暴カよりも力があることを,彼らは自覚し、そのため一応公正中立の体をとって巧みな誤魔化しを決め込んできたのだ。
僕はすべての新聞に目を通してきたわけではないが、地元北海道新聞の憲法に対するスタンスは完全な改憲反対である。
おそらくこの極左新聞に限らず、新聞協会に加盟しているところは感覚の差こそあれ、どこも同じ論調なのだろう。
改憲という考えは軍国主義思想の一里塚、軍国主義は暴力主義の権化、暴力に対しては仮に“ベンの暴力”といわれようとも行使することは正義に過じるのだから正当であるといった過大意識がそこに後ろめたさを感じさせない。
今年のはじめから僕は北海道新聞の憲法に関する“記事”を注視してきた。「読者の声」をはじめ識者の声(一応新聞社の”声”ではない)は、100パーセント改憲反対である。
議会制民主主義のスタンスをとるこの国の政治状況 - 自民党が圧勝し安定政権を樹立した中で、仮にそのときの争点が憲法問題になかったとしても、この寄り合が民主主義のオモテ面(新聞)に表れないのは明らかな情報操作である。
何か事があるたびに「民主主義の危機」を主張する彼らが‘実は民主主義を悪用して宣伝材料に使っていることに国民は気づくべきである。
しかし彼らは一方的な自己に優位な主張ばかりを載せるわけではなし」割合的には少ないが自己に反対する意見も掲載する。この点については現参議院議員の舛添要一氏が政治評論家時代に「反対派の意見も載せることによって公正中立を装っている」と指摘したことがある。
僕自身の経験としても反対意見を載せてもらったことがあるが、その後ある年配者からの投稿というカタチで「先日の投稿者(僕であるが)の主張は戦争を知らない世代のたわごと」と片付けられた。
理論に対しては理論で返すべきであろうが、感情を以てして「戦争を知らない世代のたわごと」で片付けられたら、それで議論は仕舞である。穿った見方をすれば、この《年配者》とて、本当に実在するのかどうかわからない。

 今回の構下発言の騒動の本質はこうだ。

橋下氏および日本維新の会の政治主張は自民党と同ーである。もともと自民党と何ら変わりがない維新の会がそれでも自民党と合流しないのは、「公明党と手を組んでいるから」(石原慎太郎代表)にすぎず、そう捉えるならばマスコミの敵は単に現政権与党たる自民のみに恨らず、最大の懸案である憲法を変えようとする勢力全般になる。(したがって与党といえども改憲に反対の立場をとる公明党は敵視の対象とはならない。
さらに詰めていえば、橋下氏および日本維新の会を叩くととは、同じ改憲の立場をとる自民の「姦策」にクサピを打ち込むことができると考えるのである。
つまり安倍および自民党の考えは橋下の考えに同じだとスライドさせるのである。
もしも自民が政治的スキャンダルを犯さなければ、支持率もアップしているだけに、参院選は昨年末の再現となることは明らかであり、そうなれば「憲法改正」は加速すると警戒しているだけに、橋下を叩くことが自民に波及すると考える。
発言の主旨が歴史問題であるだけに、憲法問題はリンクしやすい。結論的にいえば、橋下発言は怒りを催すものではなく、実はマスコミにとっては政治戦略上むしろ有り難いことなのである。

 橋下発言の問題点

さて今回の騒動の「もうひとつの視点」という主要点についてここまで書いてきたが、ついでに補足的な意味で橋下発言の要旨について若干論じておきたい。
僕は楠下発言は概ね間違っていないと思っている。彼がいうように、戦中というのはある意味で狂った状況、言葉を変えれば正常な意識なり感覚を焼失した状況であることは、《戦争を経験しない者》にでも理解できる。
僕は自衛隊に在隊していた経験があるが、入隊後まもなく規律社会、厳格を求められる共同社会に正常な感覚を失い、頭がおかしくなって除隊させられた若者を何人も目にした。
あるいは痴漢をしたり、盗撮等破廉恥行為をする者の多くは大学教授や警察、官庁勤め等厳格で真面固な人が多いと聞く。
人間はいついかなるときも平常心を保てるほど強者でも聖人君子でもない。しかも従軍慰安婦が現段階において強制連行たる証拠がなく、認定もなされていないだけに「性奴隷」たる位置づけも適当ではなく、合意性があったとみるならばそこに問題が認められるものではなし、歴史というのは人聞の価傭観を大きく変える。
それは食生活から衣食住、生活のすべてにおいて変化をもたらす。かつての時代から逆に現代を見ればそれとて異質と映るだろう。またどこの国でもあったという理論を展開したとき、「他の国がやったからといって我が国もやっていいといえるのか」という論調も必ず出る。
たしかに犯罪がそれによって免罪されるという考えが蔓延すれば社会の秩序は保でなくなるだろう。
しかし事によっては、逆にこういうこともいえないだろうか。「当時はどこの国でもやっていたじゃないか、そんな中で、何ゆえに日本だけが攻められなければならないのか」
当時はどこの国でもやっていたじゃなかと発言した瞬間に、反省がないと当事国(被害国という体裁をとるゴロツキ国家)は激高するが、少々乱暴な言い方になるかもしれないが、一般論でいえばこれは状況によっては認められるのである。

先の大戦(進出)が、他国を侵し略奪を展開したという意味での「侵略j 行為に当たらないといえる根拠はこの論理からである。それとも喰うか喰われるかの緊迫状況下において座して死を待つ選択をすべきだったというのか。

ベトナムの博物館にある韓国兵によるベトナム人残虐虐殺のジオラマ
ベトナムの博物館にある韓国兵によるベトナム人残虐虐殺のジオラマ

「従軍慰安婦」についていえば、では日本との間にこうした問題を抱えている韓国は、ベトナム戦争で一体何をやったのか。
韓国兵士がやったことは明らかなる強姦であり、その規模も他国のそれとは比較にならない。
 韓国が歴史の中で残忍極まりない婦女暴行強姦行為を繰り返しながら、日本に対し被害者意識を者わすのは厚顔無恥も甚だしい。

しかも日本に凌辱行為を強いられたというのであるならば、尚更被害による“痛み”を感じているのだからそういう行為はできないだろう。歴史を教訓としない典型的な例である。そこには常識も人間性モラルの欠片もない。

僕は概ね橋下発言に対し肯定的な見方をしているが、かといってその発言のすべてに賛同しているわけではない。

彼はその後の釈明会見で先の大戦を「侵略」であったとし、慰安婦に対しでも「多大な苦痛を与えた」と主張した。つまり「あの(戦争という狂った)状況下では仕方がなかった」「どこの国でもやっていた」としながらも、ー方では日本が加害国であることを認めたことになる。
この発言の双方には矛盾が指摘できないが、であるならば彼が何を訴えたかったのか、何を問題提起したかったのか、皆目見えてこない。
政治家は学者ではないのだから、学説よりも被害加害性を説き、世に提示するものである。
また彼は少々人間性モラルに賭ける発言をしたことも問題である。
性的行為という事例に対しては、国家の内外を問わず、現在の政治状況では簡単に触れられないものと化していることを意識するべきだった。
肯定的見解を示せば叩かれること必然で、誤解を生じさせる敏感な事例なのである。
つまりは斯くなる発言をすれば斯くなる結果を招くことをもう少し気に留めるべきだった。しかし政治家というのは本来、たとえ誤解を受けようとも、言うべきことを言うのを怠れば、国益を損失するのであるから、そもそも現下の政治状況こそが問題なのであって、まずは日本の政治家の政治姿勢を見直すことが先であろう。
現存する人聞がより思考カや判断力を養い、高貴な人聞になるよう、努めなければ、それはより深みを増し、取り返しのつかないことになることを自覚すべきである。
結論的には、今回の橋下発言は従軍慰安婦への苦痛と迷惑を認めたという意味で、これからはそれをベースにした論調が展開されることになるのだろう。国家にとっては大いなるマイナスとなってしまった。
僕は、歴史のすべては日本だけが絶対善あって、他国が絶対悪であったというととを主張するものではない。行為の中身をきちんと精査し、利己主義的なものの見方考え方をしないことを主張したいだけである。
先頃在日の韓国人評論家があるテレピ番組でこんなことを言っていた。「日韓両国で日本人にとっての忘れられない韓国人、韓国人にとっての忘れられない日本人という企画で統計をとったところ、日本人はベヨンジュン(俳優)が1位だったのに対し、韓国人は伊藤博文を挙げた。100年の歴史の中で未だにこの感覚である」
彼はそれ以上の言及(意見)を避けたが、その意はとり方によっては『それだけ韓国の恨みは強い」ともとれるし、逆に韓国の頑ななこだわりに対する嫌悪感や戒めにもとれる。
言葉尻からすれば真意は後者にあるととるのが妥当であるが、だとすれば今回の騒動の中で出たコメントの中では、いかなる日本人よりも、皮肉にも韓国人がもっとも真っ当なな意見を述べたと思える。
どこの国でも、いつの時代でも重要なのは過去よりも未来である。過去というのは未来に生かすべき教訓である。
であるならば問われるべきは伺よりも常識であり人間性モラルでなければならない。
そのことについては日本や韓国のみならず、世界の国々がひとしく意識すべきことである。そうでなければ人々が忌避する戦争は永遠になくならない。

(小松憲一 記)

国際新聞編集部

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